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12月, 2021の投稿を表示しています

源泉とグラスといまあるもの

 例にもれず、今年という区切りを前にすると振り返りたくなるようです。 今年はいろいろあったなぁ、いろいろやったなぁというのが第一印象。 挑戦したこと、つかんだこと、手放したこと、実験したこと。 琥助の脱走劇、自分の変化、パートナーの変化。 離れていったもの、舞い込んできたもの。 感じようとして、考えて、 選んできて。 そう、いろんなことがあった。生きている人みんないろんなことがあったんだろう。 でもいま、落ち着かないじぶんがいる。 なにか見逃している。なにか握り切れていない。 それはたぶん大事なもので、2022年に持っていくものな気がしている。 さて、まずは向き合い方だ。 じぶんとの向き合い方。 詰め込んでしまうと自分を見失うタイプだというのは近年わかった。 1人の時間が必要。できれば連続した日にちが望ましい。 紙とペン。静かな場所。くつろげる椅子。腕を伸ばしてもぶつからない空間。 呼吸。臍の下の呼吸。吐くことが大切だけど、吐き過ぎることは無理になる。 眉間の奥を緩める。目の奥をほぐす。おでこから正中線に添って、後頭部、頸椎まで。 あたたかい飲み物、飲み落とす感触。 五感を心地よくし、意識を開き、じぶんに問う。 この一年で気づいた、最も大切なことはなにか。 この一年で手に入れた、最も価値のあるものはなにか。 いま、不安を感じているものはなにか。 それを、来年にどうしたいか。 どんなじぶんを知ったのか。 なにを磨いてきたのか。 どのように震わせてきたのか。 どこにいたいのか。 誰に届けたいのか。 どうなりたいのか。 そのまんなかに あるものはなんなのか。 その行動の源泉はなんなのか。 愛、癒し、知る、気づく。 じぶんを満たせていないものはなにか。 このじぶんの暮らしから このじぶんの生から 発していけるもの その実感 その実感を伴った ものを磨き、震わせる 暮らしに生き方を乗せる 暮らしに生き方を混ぜる いや 生き方の上に暮らしを築く 生き方の中に暮らしを込める 生き方の下にあるものはなにか。 なにから行動を起こし、 何の上に築くのか 振り切れるのか 振り切るものなのか そこからまず、考えてみることなのか その一点から、まず考えてみるということなのか。 愛のエネルギーと 地球への循環 魂の課題と 元なるものとのつながり あぁ ここがまだ文字面だけだ 浮いている...

とある記事のリフレクション

 とある方の記事に出逢い、 とても心動かされました。 深い心遣い。 思いやりの行動。 こんなことばを渡せる大人になりたい。 そう思わされるエピソードでした。 シェアのお許しをいただき、 みなさまにもご紹介させていただきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ わたしからあなたへ伝えたいこと 自分を一番だいじにすること。 自分をだいじにできるのは自分しかいないと、強く心に決めること。 自分がどうありたいのか、 どのような自分でいたいのか、 自分で決めること。 自分がどうありたいか、を考えること。 わからないときは、答えをさがしながら、 自然にわかるまで気長に待つこと。 自分が何をしたいかを考えること。 わからないときは、したいことが出てくるまで気長に待つこと。 自分がしたいこと、元気が出ることをすること。 自分で元気が出るように、 自分を自分でコントロールすること。 どうしたら元気が出るのか、自分と相談すること。 元気が出ることをしてもいいと考えること。 元気が出ないことはしなくてもいいと考えること。 しなくてはいけないことを、減らすこと。 しなくてはいけないことを、時にはしないこと。 しないことも「あり」だと思うこと。 しなくてはいけないことも、していない人が 世の中にはたくさんいることを知ること。 しなくても、特に非難されたりしないことを知ること。 (時には非難する人もいますが、何をしても、しなくても、非難する人はいます。) 自分は自由だということを知ること。 自分のことは自分で決めていい。 つまり、自分を一番だいじにすること。 そして、それができたら、 それから他人もだいじにすること。 みんなで幸せになりましょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は紙から目を上げ 補佐のほうを見た。 泣いてしまったらまた 心配をかけてしまうと思ったけれど 気づけば涙は ポロポロとこぼれていた。 「いいんですよ、 あなたはもっと自分に甘くなっても」 それはちょうど 春風みたいに、 穏やかな口調だった。 noteより ち あ き 「言葉は春風のように」 ぜひ注釈のところから、全文お読みいただきたい。 この記事のような世界が広がってほしい。 きっとこれから先、 自分を置き去りにしてしまいそうになったとき、 「自分なんて…」「どうせわたしなんか…」 ...

猫はじぶんをしっている?

 うちには一匹の猫がいる。 名前は琥助。推定2歳半。 出先の駐車場で、後ろ足を折っていた状態で座っていた。 ふだんはそんなに猫は近づいてこないのに、 なぜか琥助は近づいてきて離れなかった。 あたまをこすりつけながら、小さなからだで甘えてきたり。 足を折ったままで、ごはんにありつけるだろうか。 保健所に連れていっても、もらい手は現れないんじゃないか。 そんなことが巡り巡って、結果連れて帰った。 当時は猫飼い禁止のアパートにいたから、匿うのがドキドキだったことが懐かしい。 (結局琥助のために引っ越したら、けっこう快適な暮らしが待っていた) 今思っても不思議な出逢いだが、きっと前世のどこかで家族だったんだろうと思えてしまう。 そんな琥助をみていると、 猫ってすごく自分をわかっている生きものなんじゃないかと、 いつも思わされる。 猫にはつよさがある。 獲物を捕らえるための高い身体能力。 猫には愛嬌がある。 こうしたら可愛がってもらえるとわかっているような仕草と行動。 猫には自分のペースがある。 寝たいときに寝て、遊びたいときに遊ぶ。 どうしたら自分が快適に過ごすことができるのか、よくわかっている。 そこには自分自身で生き抜けるつよさと、 自分の可愛らしさが天然でわかっている(と思わされる)自己理解と、 自分の生きやすい方法をとることができる感性と。 彼から学ぶことは、まだまだたくさんありそうだ。

幸せの数と早さ

 幸せと感じることが多い人ってどんなかんじなのだろうと ぼんやり考えている 日々の出来事は、みんなそれぞれ起こっていくけど その「幸せ感覚」の量ってどうやったら増えるのかなぁ 今を感じる 楽しいことを意識する 幸せだと思うようにする うーん なんだかわかるけど、ちょっとおしい気がする もう少し、こう、違う切り口で・・・ ・・・あぁ、なんか「早い」のかもしれない 幸せと感じるのが「早い」 幸せと思うポイントが、早い 「朝起きた⇒よく寝た⇒起きるか⇒今日はあれがあるな⇒そうだあれも…」 (幸せ浮かばず) 「朝起きた(幸せだー)⇒よく寝た(幸せだー)⇒起きるか(幸せだー)」 幸せ来るの早い‼ こんなペースだと幸せで埋もれてしまう笑。 でも、起こったことに逐一幸せをつけていったらどうなるのだろうか 日々がどんなふうに見え、感じるのだろうか ちょっと、試してみようかな あと、ちょっと微笑むのはけっこう自分的には効果がある 朝起きて、ちょっと微笑む 息を吐きながら微笑むのがいい なんだか平和な気分になるんだよ、なんとなくね そのなんとなくって、けっこう効くなぁって感じるんだ

存在の不安と承認

 ふと10年前の投稿記事をみたら 当時もおんなじようなこと考えていたようだ。 ”「存在の不安」は人類に普遍的なもので、その中で、神という超越的な存在が個人に生を超えて価値を与えてくれる宗教というものも生まれました。 しかし日本ではそういった一神教的な思想がなじまなかったこともあり、歴史的に「人間関係の中で他人から認めてもらう」ことへの依存度が非常に高い。”                     BRUTUSより    萱野 稔人 コミュニケーションを取ることと自分を保つってことの間にあることのひとつに、 こういった理由があるのかなー。 神から生を受けるのではなく、社会と自分以外の人から生を受けてる。 その中で強く生きれるのは、自分で生を刻んでいける人。 それを刻む、一本の武器を心の中に持っている人。 じゃあ、その武器はどうすれば見つけられる? Facebook過去の投稿から 25歳。当時は行動よりも頭の方が働いている時期だった。どうにかならないのかと足掻きつつ、どうしたらいいか迷っていた。自分のこともつかめていなかった。 だから、中々実感が伴わなかった。 でも、その時と比べれば今は変わった。 そしてあの頃はあの頃で一生懸命だった。 誰に認められなくても、甘いと言われても、 今の自分からは言ってあげられる。 よくがんばったね。おかげさまで今があるよ。 自分で自分の存在を、認めることができてきてるよって。

猫好きの人の他への愛

 猫好きの人の、あのあたたかさはなんだろうと考えたことがある Facebookの猫好きグループの投稿は、いつも愛に溢れている 自分の家の中だけでなく、他人の家の猫のことでも 深い共感や思いやりの言葉を投げかけている 眺めているだけで、やさしい気持ちになる なんとなく他の動物と違うような気がして、考えてみた その中で心に留まったことが「偶然の出逢いを受け入れる」ということである 「猫を拾った」 「野良猫が通うようになった」 など、自分の人生に偶然にも入り込んできたその猫を、受け入れることがあるなぁと思った 実際にわが家の琥助も、出先の駐車場で脚を折っているところ保護して連れて帰ってきた (琥助との出逢いはまたあらためて) この偶然性のなかで出逢うものへの 「助ける」「愛を向ける」「自らのものを差し出す」といった行為 それをさせてくれる存在 なにかそういった出逢いの過程の影響が、 人のこのあたたかさにつながっているような そんなような感じがしている

100時間

 対話で人の力になれるようになりたいと、 まず国際コーチング連盟の国際資格ACCを取得する目標を立て、 クライアントさんを募りはじめた6月。 今日1つの節目になるような、合計100時間のセッションをさせていただきました。 延べ98人・計28人の方々が受けてくださり、貴重な時間をともにしていただけたこと、心より感謝いたします。 継続することは一進0.5退で、振り返りをしないと、スルスルとあっという間に経験がすり抜けていってしまう。 その一進がの積み重ねが少なくなる。 日々の学び、経験の時間を無駄にしないように。 振り返りを織り交ぜつつ、これからもじぶんの感覚と特性を磨いていきたい。 未来志向と着想の特徴から未来を描くことはやりやすいとして、 今より磨きたいものは、「今を感じる、自分を知る」という部分だなぁと思うので、 その手法の学びや体現する練習を、意識していきたい。 来年から、またステージを変えて動き出します。

下地を固める

 この1年を振り返るというセッションを受けさせてもらい、 その中で現れたのがこの言葉である 今年を一言で表すと どんなことばが浮かびますか? その問いを受け、 はじめに浮かんだのが「下地」であった 次に浮かんだのが「土づくり」であったが、 こちらはちょっと違和感を感じたのでやめた 土は、その前からつくってきている印象で 今年というところに限定されない気がした そのイメージした下地は 陽があたりあたたかくて、耕したら育ちそうな土 小屋ひとつ建てられそうな大地 その上に、まだたくさんのものはないけど、 人が集まったり、椅子が置かれたり、遊具で遊んだり 夜を楽しんだり、火を囲んだり、飲み物を飲んだり、 人が、ひとときを過ごせるくらいの固さを 築いてきたように感じた 来年は、これまでの想像を具現化していく 想像を、創造していく その下地づくりを積み重ねてきたんだなぁと じぶんのなかにその感触を もつことができた時間になった ありがとうございます

効率の名の下に

 佐藤草さんのnoteを読んでのリフレクション。 コーチとしての経験はまだまだ浅くておこがましいが、今ある感じたことをここに記す。 リフレクションジャーナル。 コーチングの限界と役目を終えることの意義|awai 佐藤草(さとうそう)from 🇨🇷コスタリカ ケポス|note 朝3時半から始まった成人発達理論マスターコースのコンサルティングセッション、そしてその後に催された懇親会への参加を終え、ひ note.com 『効率・スピード』 ぼくがこのnoteを読んだとき 浮かんできたのがこのワードだ わかった気になっていないか 効率の名の下に 味わうことを疎かにしているものはないか 置いてけぼりになっているものを 忘れていないか 見て見ぬふりをしていないか 無意識に後回しにしていないか この悠久の歴史の中で ヒトはそのスピードに合うように それほどまでに進化するのだろうか すべてがそのスピードで進めると思っているのだろうか 魂というものがあったとして 連綿と繋がっていくその いのちの時間の流れのなかで スキルではなく、対話 成果ではなく、感覚 余韻 ここでの響きを持ち帰り 薄れそうになったら浴びにくる 強めたかったら震わせにくる yoritoco七芽の羊 ここはそんな場所である

あの夜

 ........... Facebookから流れてきた思い出投稿。 5年前の今日が表示される。 あの夜に感じたことを、そのときの自分が綴っている。一枚の写真を添えて。 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 演じること幾年 たちゆけないよわさ 覆いかぶさるいいわけを 剥がしとるこころの膜 たちもどる無垢の感情 いいんだろうな そこの自分を信じれば こころは軽くなる ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 長野時代。この本を近所のスタバで読み、湧いてきた自分の気持ちを言葉にできた。 「もし技術も経験もお金も、関係なくてよければ、照明をつくってみたい」と。 その気持ちを信じることにした。 そしてなぜか、帰りに今のパートナーに電話しているときに流れ星をみた。 単なる偶然かもしれない。考えたいように考えたのかもしれない。 でもそこに、なにか後押しを感じた。応援だとじぶんは思った。 5年前の、あの空の星景は、まだこころと頭のなかに残っている。

感性を通し切る

 ただいま展示会に参加するために、福岡警固まで遠征中。 お昼時間に会場周りを探索していたのだけだも、 知らないまちをあるく感覚、ひさしぶりだったなぁ。 Googleマップに頼らなくてもいい時間の余裕と興味でいったりきたりする自由。 自分の感覚で遊ぶかんじ。 そういうときって、だいたいなにかしら良い発見がある。 「おっ?」っと思った方向に行ってみること、 お店に入ってみること、お金を出してみること。 これを最後までやってみることで、感じられるステージがあるなぁと思う。 金額はいくらでもいいので、 自分の感性を通し切ってみる体験、 おすすめである*

雑感 1

 対話の量と質って、どんなものだろう たくさん話すといいのだろうか よくよく練られているといいのだろうか 流れていってしまうものと 心身に残るものの 違いはなんだろう 雑談は流れていってしまうのだろうか 雑談のなかからアイデアが、本音が、生まれるのはなぜだろうか 軸に 核に 魂に 触れるかどうか 気づくかどうか 意識するかどうか じぶんを あいてを 知ること そこに向かうための 質と量を 想い描く

できないの裏側に

 できないと感じるのは終わりじゃない できないと感じる裏側には それをしたいというあなたの願いがある だからできないと思うじぶんは なにもない、空っぽのじぶんなんかじゃない みらいを夢みて いまを、明日を、いきたいという 輝くじぶんがそこにはいるんだ そして それをしたいと気づくとき それをしたいと願うとき すべてがそこからはじまる 想いが みらいにつながりはじめる

思考の分かれ道

 なにかうまくいかないこと、嫌だなとおもうことが起こった瞬間、 思考がマイナスの方へ引っ張られる なんでこんなことになるんだ きっとあの人がああいう性格だからだ というように ただ、その思考にも分かれ道があって 起こった事実に自身で色付けをしている瞬間がある そこに転換のチャンスがある 事実を見たり聞いたり感じたり まずはそのまま受け止める「ということに気づく」 あぁ、こんなことが起こっているんだなぁ、と 間を置く練習をしてみる そして自分にとってためになることが起こっているなど 学びの姿勢に思考を向ける 嫌だと思ったことはメッセージであり 失敗だと思ったことは経験になる なんで自分にと思ったことは成長であり ついてないと思ったことはチャンスである わからないことは、絶好の学びの機会だ 始めに引っ張られてしまっても 途中で気づけば替えられる よくないと思うようなことが起こったり、とらわれたりする瞬間に 口に出してあげられる じぶんにとっての都合のよい「ことば」を見つけてみよう 必要なことだけ起こるんだよな~ なにかの予兆だな~ うわー経験値増えたな~ こんなふうに 空に向かって息とともに吐きだせるかんじが 個人的には気に入っている とらわれている時間も そこから学んでいる時間も 前を向いている時間も じぶんで 選べるのが人間で 支援が必要になるのも人間だから いっしょにちょっとずつ 練習していこう

自分と振動

 ぼくはこの「自分」という漢字が気に入っています 解釈は別かもしれないが、 「自らを分ける」と書く「自分」の意味を想像すると なんだか豊かな気持ちになるのです 「自分を大事」にとか「自分の〇〇」としたとき、 同時に己のなかに「すでに分けてあげられるものがある」ような気がして、 自分の役割を感じることができるからです ぼくの活動のテーマのひとつに 「自分を知り、磨き、震わせる」というものがあるが、 これは共振現象をイメージしています 理科の実験などでご覧になったことがあるだろうか いくつかの音叉を並べ、ひとつの音叉を叩いて震わせたとき、 同じ振動数のものだけ離れていても共鳴し合う現象 ぼくはこの現象になぜか惹かれていて、そこに 「触れるものや聴こえるもの」 「人の意思や気持ち」 「動植物や自然地球」 「もしかしたら宇宙とも」などが、 影響し合う世界があるんじゃないかと想像しています 自分を知るということは、 「自らを分けるもの」に気づき、その存在を知ることに繋がる それは、何かに、誰かに、影響を与えられるもの じぶんに備わっている、分けられるものに気づくこと もうすでに自らの中にあるものを知ること その宿っているものを磨き、振動をつよくすることができれば、 じぶんが願うものへと 距離を越え、その振動が伝わり、 繋がり、向かっていけるのだろうと 想像しています 取って繕ったものではない、本来のじぶんで繋がる生き方 好きなもの、心地いいもの、よろこぶもの、愛するもの そんなものたちと繋がり、共振し、高め合える生き方 想像的だけど、そんな生を目指しています そしてそれは「光」にもあるんじゃないかと思うんです 星が選んだ自らの声の届け方 真っ暗闇から発せられた、光という星の声 そんな光のひとつひとつを 小さな灯りに込めて乗せ 今日も地球の片隅から 届けとどけと発しています (このお話は、きっと何度も書いたり考えたりしていくんだろうと思います)

4年ぶりの手帳

 今年は新しく手帳を買ってみた。 手帳を買わなくなってから4年は過ぎたんじゃないかと思う。 その理由は、立てた予定が達成できなかったり、リスケジュールをしなければならなくなると書き直しが生じてしまうので、 その面倒さと「あぁ、また繰り越しになってしまった」という自信喪失を感じてしまっていたからであった。 それならば、簡単にスケジュールを立て直して書き込めるGoogleカレンダーのほうが楽ちんで、しばらくそちらを使っている。 そして自由なアイデアは方眼ノートへ。 でも、なぜか今年は手帳を買ってみようという気が起きた。 選んだのは「月とカヌー」さんのはからめ月の手帳。宇宙のリズムを感じようと書いてある。 そこで早速予定を書き込んでみようと思ったが、 やっぱりペンが進まない。 すでにいまのところ予定管理はGoogleさんで足りているしな。 さてさて、どうしたものかと。 しばらく机に置いて目に入れている。 予定を入れたり直したりするのがめんどうならば、 違う使い方をしてみればいいのでは。 例えば「予定」ではなく「目標」を。 「スケジュール」ではなく「願い」を。 数年間、年末年始に書いている「未来年表」を より具体的に意識するための書き込みをしたらどうなるだろうか。 …ただあまりぎゅうぎゅうになってしまっても、しんどくなりそうだ。未来に縛られるような気持ちにはなりたくない。 そういえば未来年表は、年末年始の3日間くらいかけてガッと集中してつくり、 それを目に入る位置に貼って意識させるというゆるっとした感じでやるのが気に入っていた。 さてさて、どうしたものかと。 ん~ そうだな。 問いてみよう。 「あなたはこの手帳が、どんな影響を与えてくれたら最高ですか?」 「あなたはこの手帳が、どんな未来をつなげてくれたら嬉しいですか?」 「あなたがこの手帳を、手にする価値はなんですか?」 「あなたはこの手帳と、どんな関係を築きたいですか?」 「この手帳が手元にきたことは、どんなメッセージがありますか?」 答えてみる。 「宇宙のリズムを感じ、自然のリズムを感じて行動ができて最高」 「予定ではなく、願う未来へ繋げてくれる」 「夢と願いを持ち歩き、楽しいイメージをしていること」 「使いこなすのではなく、対話をする関係を築いている」 「ことばを放つことのトレーニング」 思い浮かんだものをそ...

星の旅

 それぞれの星たちが 周り巡る旅をするなかで いま一刻重なったこと その時間は一瞬かもしれない その時間は永遠かもしれない そしてまたそれぞれの軌道をすすみ お互い離れていくだろうけども そこで受け合ったエネルギーは きっとじぶんたちだけの星を かたち創っていくことだろう

冬至の目覚め

 星の動きから、今年の冬至は大きな切り替わりの日になるのだという 「自分自身の目覚めを意識すること」 それが大切なことになりそうだという 個々の誕生星座や運勢は、命として定義されたときではなく、母から生まれ切り離されたときに決まる 母との一体から離れ、個としてエネルギーを浴びるのだろう 月と地球の距離で潮位が変わるように 遠く影響のないように思う惑星からの なにかを受け取っているのだろう この星の声を受け 冬至迄の自分は、いったい何に目覚めているのか あなたのなかに、なにが目覚めているのか なにが、目覚めているか 問いかける あきらめずに 問いかける 投げ出さずに 焦らずに 息をはき 肩を下ろし 問いかける 眉間をゆるめ ちょっとほほえんで 問いかけるんだ そのやりとりの中から その対話の中から あなたの なにが 目覚めましたか わたしは じぶんを生きることを あきらめない そして 自分が分けられるものを 磨き 必要な人に この振動がとどくように 響かせていく わたしの振動が 必要な人の 「じぶんをいきること」を 震わせられるように またその先へ つながるように まずはじぶんを生き じぶんを満たし じゅうぶんに溢れさせる これを読むあなたに とどけ 響け この 想いが あなたを震わせられるように

「楽」で「楽しく」

 楽(らく)と楽しいは 同じ漢字を使うけど、違うことように感じている 楽だから楽しいとは限らないし、楽しいと楽とも限らない 楽を想像すると ちからが抜けていて、容易にできて、苦じゃないかんじ 楽しいを想像すると 心が軽くて、伝わりそうで、動きがありそう これを入れ替えると、どう感じるのだろう 楽は 心が軽くて、伝わりそうで、動きがありそう 楽しいは ちからが抜けていて、容易にできて、苦じゃないかんじ 動きがありそうだけ、なにか隠れていそうだが 思ったより当てはまりそうだった じゃあ、感じている違いはなんなんだろう そうだ 楽には安心がある 安心は じぶんのこころに無理がない状態 安心できるということ ぼくは楽に、楽しく生きれる人が増えていければと思う そのためにどうすればいいか、考え行動していきたいと思う まず安心があること それは、きっといろんな場面で 安心できる場所で、楽しみに気づく その場のひとつを じぶんの個性と活動で その役割を担っていきたいと そう、思うのです