ふと10年前の投稿記事をみたら
当時もおんなじようなこと考えていたようだ。
”「存在の不安」は人類に普遍的なもので、その中で、神という超越的な存在が個人に生を超えて価値を与えてくれる宗教というものも生まれました。
しかし日本ではそういった一神教的な思想がなじまなかったこともあり、歴史的に「人間関係の中で他人から認めてもらう」ことへの依存度が非常に高い。”
BRUTUSより 萱野 稔人
コミュニケーションを取ることと自分を保つってことの間にあることのひとつに、
こういった理由があるのかなー。
神から生を受けるのではなく、社会と自分以外の人から生を受けてる。
その中で強く生きれるのは、自分で生を刻んでいける人。
それを刻む、一本の武器を心の中に持っている人。
じゃあ、その武器はどうすれば見つけられる?
Facebook過去の投稿から
25歳。当時は行動よりも頭の方が働いている時期だった。どうにかならないのかと足掻きつつ、どうしたらいいか迷っていた。自分のこともつかめていなかった。
だから、中々実感が伴わなかった。
でも、その時と比べれば今は変わった。
そしてあの頃はあの頃で一生懸命だった。
誰に認められなくても、甘いと言われても、
今の自分からは言ってあげられる。
よくがんばったね。おかげさまで今があるよ。
自分で自分の存在を、認めることができてきてるよって。
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