スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2022の投稿を表示しています

名前のついていないたからもの

 小学生の頃はテレビゲームが大好きで 登校前に早起きして 成長を想像しながらコントローラーを握り こつこつとレベル上げしていた 今は灯りをつくっていて どうやろうかなって考えながら こつこつと手先を動かしている そしてこうやって言葉を綴るのも 絵を描いてみるのも 自分から湧き上がるものを感じながら 画面に紙に こつこつと手指を動かしていく あぁきっと 楽しいなって思うことって続いてるんだ いろんなことに手を出して どれも長くて続いてこなかったって そう思っていることもあったけど 小さいころから楽しんでいる 変わらないものがずっとあった 職業みたいに名前はなくて 物みたいに形はないけど でも変わらないものがずっとあった あなたにもあるだろうか そんな名前のついていない 自分のなかのたからものが

猫の鼓動

 寒い日の朝は よく琥助さんが足の間にうずくまってくる 寄り添ってくる猫 イメージは可愛らしいが 実際にはなかなか重い 5.6kg 米1パックより重い でも今日はなんだか振動を感じる 琥助さんの心臓の鼓動 自分のより 早く打たれる脈動 心臓の鼓動の回数は 真偽は知らないが どの生きものも同じっていう話もあったな ねぇ琥助さん きみといつまで一緒にいれるかわからないけど そんなに生き急がなくていいよ ゆっくり時をすごしなよ そんな想いを知ってか知らずか とにかくマイペースな猫に 習う人生の姿

iPhone写真24000枚

 iPhoneの写真。 その保存数が24000枚もある。 全部で約88GB。 溜まってるなー。 昨日からふといらないもの消したくなって 2008年から見返している。 これだけ量があるとおもしろい。 自分の人生の片鱗を感じる。 その中で2017年ごろまで せっせと集めていたものがあった。 それはいろんな人の言葉だった。 名言とか格言とか、メッセージとか。 そんなものを色々集めていた。 それをいくつも眺めていたら あぁ、目がいくものは変わってないんだなって感じた。 自分を鼓舞するようなものだったり 迷いの中から見出すものだったり 人生はこういうものよとか こうやってつくっていくのよとか 色々あった。 その中で 今のままでいい 今感じるものを大切にしていくこと 急ぎすぎないこと たくさん味わうこと そんな言葉も多くあった 過去があって 今その言葉が湧き出て来ていると思っていたけど ずいぶん前からその言葉にふれていたみたい。 でもその時はきっともっと 取り込めてなかったんだと思う。 実感として受け止められていなかったと思う。 それは現在の方がほんの少しだけ 腑に落ちている。実感できている。 そうなんだ。 つなかっているんだな。 過去の自分も同じようなことを感じ 悩み、もがき、たどり着いていたんだ。 ぼくは過去から生きてきていた。 そして今にたどり着いていた。 その事実が嬉しかった。 過去の自分がそれを求め 今の自分がもしその時のぼくに出逢ったら 寄り添って話を聴いてあげられるかもしれない。 しんどいね。もどかしいね。 でも未来のぼくはこうして生きている。 今のきみからどう見える? 君が求めてくれたから ぼくは今こうやっているよ。 だからありがとうね。 ありがとう。

わたしとあなたとわたしたち

 床おきの猫用ベッドに 琥助さんが寝ている 今日は朝からけんかをし お互い当たり散らした それでも静かに寄ってきて ちょっとしっぽをかすめていったり 隣で横になってみたり 何かを届けようとしている こっちのほうが申し訳ない気持ちにもなるが キッチンに向かうとスルスルと寄ってきて おやつをせがむことは忘れない きっちりしたやつ わたしについて深めることが多いこの頃 わたしはわたしであるという想いが 重なっていく そしてあなたはあなたでしかないという想いも 重なっていく それぞれが個を生き それぞれの時間を生きる 家族 仲間 国 地球 宇宙 個の存在でありながら 他と関わり合うことを 長らくしてきたわたしたち このわたしたちは なにかを共有しているのだろうか そしてその「何を共有しているか」を 自分の意思で選択していることに 気づいているだろうか どこの点で わたしたちを意識するのか 距離でいえば 世界は広い わたしたちは小さい 地域の 日本の アジアの 地球の 太陽系の 天の川銀河系の さらなるどこかの ひとつ だから各地に散らばって いろんな幸せを体感して やりとりをしている わたしはここで あなたはそこで わたしたちは 幸せをやりとりするもの そんなふうに括ったら いったいどんな つながりが広がるんだろう

じぶんとおはなし

 行動をひとつひとつやってみること ながら動作をしないこと これを日々意識してみている そうすると ひとつひとつ 味わえるチャンスがやってくる 体感するチャンスが 表れてくる それはたしかに実感をともなって いま自分はこう感じている これを美味しいと感じている など 「いま」を感じられていると思う ただ一方で 先のことを考える時間が減っているように感じる やや先を想像する力が 一時的にでも少なくなっている気がする そこに少し 心配を感じている それでいいのだろうか 大丈夫なんだろうかと じぶんに問う 大丈夫かい と 大丈夫って 何を大丈夫って聞いてるの? これからの自分の動きを決められてる? 方向性はぶれてない? 資金は間に合うの? でも一方で 心は穏やかだよ 人に贈る気持ちが出てきたよ 1日を大事に過ごせているよ 自分を大事にできているよ 家族を大事にできているよ 関わってくれる人に気持ちを向けられているよ そんな声が返ってくる そうかそうか そんな気持ちになれているんだね それは幸せな体感をしているね 今はそれを味わいたいのかい? そうだね こうやって過ごすのは 初めてかもしれないね 一生懸命あたまで考えてきた時期 間違えないように 失敗しないように 見定めてきた そのおかげで いまぼくはここにいれているよ どうもありがとう 穏やかでいられる場所まで いい風がふく場所まで 体を連れてきてくれてありがとう ここでいっぱい息をすうよ 皮膚で世界を感じるよ 楽しむよ 少しそうしていてもいいかな ぼくはそれでもいいと思うよ だからぼくをここに連れてきた ぼくがじぶんを感じたいと 感じようと 生かそうと思っているから ぼくはぼくをここに 連れてきたんだよ ぼくがぼくと よりつながるように ぼくがぼくを 発揮していけるように こうやって ほら いま練習してるんだよ やってみてるんだよ ちょっとずつ感じているでしょ 練習すればいいんだよ ぼくはぜんぶ受け止められるんだから ね だから 大丈夫だよ

食べるときのこと

 ごはんをたべるとき 何回かんでいますか? 10回かんだときの味と、50回かんだときの味 どんな違いを味わってますか? 鼻の奥にぬける香りは いくつありましたか? 出された料理の彩りは 何色ありましたか? 日々繰り返すたべるということ あなたはどれくらい 感じているでしょうか。

Journaling Club for Professional Coach」トライアル前半

 いま、佐藤草さんが開催されている「Journaling Club for Professional Coach」のトライアルにて、ジャーナルを書くこととコーチングについて向き合う時間をとっている。 その前半が過ぎようとしているので、一度振り返りのジャーナルをここに残す。 初めのテーマは 「自分にとってコーチングとは何か?」 と 「自分がコーチングにおいて、果たしている役割」 というものであった。 これまで何度か別の講座内でも向き合うことがあったこの問いであるが、 今回のジャーナルで書いていく体験は、全く別物になったように感じている。 このテーマを書くために、大きく分けて3稿(3回の書き直し)書くことになった。 (これは書き直しを求められたということではなく、あくまで自主的に。気持ちを新たにするために分けて書いた) まず一稿目では、これまで見たり聞いたり使ったりしている単語がよく並んだ。 それは、良くも悪くもコーチングを習うと目にする言葉であり、パッと伝わりやすいように一般化された言葉が多いものになった。 これを、コーチングを習いたての自分が書いてもこうなるかもしれない、また別の人が書いてもこうなるかもしれないといった「要約と一般化された言葉」というようなフィードバックをもらった。 自分のなかで揉んで抽出した言葉ではあったが、たしかにそう思えた。 ここで勧められたのが、「より自分自身の体験に戻り、そこを詳細に表現してみること。この考えに至ったプロセスを言葉にしてみること」だった。 これがぼくにとっては難題で、知識としての組み立てはうまく表現できたが、自分の感覚を追いなおすことが苦手に思えた。遠い記憶のような、夢のような、体験したことではあるが、体感としての実感が乏しかったのだ。 しかし、ここはなんとか食らいつこうと、書き直したのが第2稿だった。 まずやってみたのは、「コーチング」というものから感じていることの小さな糸をつかんでみることだった。 「ぼくにとってコーチングは、ハイな状態ではよくないなと思っている。 それは、人と対峙するというときの緊張や見栄ができるだけ少なく、 時間に追われず、穏やかに深く自己探求することを好むからである。」 本文より そんな糸端を手繰り寄せながら書き進めていった。 そうすると、第1稿に比べ、自分の「感情」が出てくるようになってき...

断音から引き出されたもの

 最近、あまり歌詞のある音楽を聴いていなかったからか、 久しぶりに聴くとよく心が反応する。 身体を揺らしたくなるし、口ずさみたくなる。とくに、ツアーなどのライブ音源。すごく響く。 なんだろう。エコーの響き、出演者の熱量、観客の想い。そんなところを感じているのかも。 こんなところで思いっきり歌ったら気持ちいいんだろうなぁーという思いが前からあるのは、 そんな願望もあるんだろうか。 マイク使って増幅させて、ね。あぁいいなぁ。 それとは反対に、どこかの原っぱとか海辺とかでもいいんです。 思いっきり声を出して楽しめる日常。いいなぁ。それが日常。 あ、でもみんながみんなそうなったら、ちょっと静けさが足りなくなるかも!となったら、人の少ない環境に家があるといいのかなぁ。 昨日、「3万円の仕事を10個もつ」とか、「50個の仕事を持つ。3万円が10個、1万円が10個、0円が20個、マイナスが10個(だったかな?)」とかいう話を聴いた。 そう聞いたとき、あぁ、まだまだ色々やってもいいんだなって、思った。独り立ちして、専門性を持って、集中してないと、なんだか情けないのかな、自信がなかなか持てないななんてことを感じていたかもしれない。 でも、まだまだ色々やっていい。まだ50個までたくさん、余ってるよ!(その人は3万円を超えちゃたまたら、分割するらしいよ) 百姓のなりわい。そうか、今もそんな考え方でもいいんだ。 そんな想いまで引っ張り出された今回の久方の音楽。 反対に、たくさん聴いているときは、もしかしたら聞き流すところも多かったのかも。 断食のあとの初食のような味わい。 断音。 これはこれで染みるものがある。

触覚のやりとり

 夜、猫の琥助の顔面マッサージをしている。 猫にもツボや経脈みたいなのがあるのか、 すこぶる気持ち良さそうで、目を潤ませたり顔がしわしわのおじいちゃんみたいになる。そしてありがとうと言わんばかりにベロベロ舐める。 そうやっているといつも不思議な気持ちになる。 全然別のいきもので、言語はまったくわからないのに、何かでわかりあっているような感覚。 すごくないですか? 何かを感じ合って、やりとりしている。言葉ではなく。 その大きな要素の1つが「触覚」だと思う。 撫でる、触れる。この皮膚への刺激と触れたときの交換が、感じ合う大事なことのように思わされる。 この他種とも感じあえる「触覚」の世界。 いま一度、意識して過ごしてみたい。

漢字と絵画のあいだの模様

 象形文字から成り立つ漢字は、絵画だと感じる。 現象を平面化し、記号化し、枠にまとめていく。 素敵な想像力だなぁってしみじみ思う。 もっと現代も、新しい漢字出てきてもいいのにな。 常用漢字とか、変換できるとか、既存の部首とか、そんなことは脇に置いて。 現象からソウゾウして。 そしたら文字も言葉も、もっともっとアートできるのになぁ。

ひとつひとつやる

 ぼくの朝の一幕。 ベッドで目を覚ましながらスマホを見る。 リラックスしようとしながら今日の予定を考える。 ごはんを食べながら 掃除をする。 髪を乾かす。 弁当を詰める。 昼の一幕。 ごはんを食べながら動画を聞く。 コーヒーを飲みながら画面をみる。 メールを返しながら製作をする。 夜の一幕。 歯を磨きながら猫と遊ぶ。 本を読みながら音楽を聴く。 そんなふうに 手が空いていれば、耳が空いていれば、目が空いていれば、 簡単に入れ込んでしまっていたマルチタスク。 ゆえに、ひとつひとつの体感が薄い。 効率的に思えても、 実感という生きてる感覚が薄くなる。 これを手放したら、どうなるかなぁ。 時間は倍かかるんだろうか? 体感は濃くなるんだろうか? 心は穏やかになるだろうか? 生きている実感は増えるだろうか。 これはやってみないと、わかんないなぁ。

今日の体感覚

 口に入れたときのよもぎ餅の香り 噛み続けたときのやさしい甘み 歯にくっつく感触 大きく声をだしたときの胸の痛み 白湯を飲んだときの喉へのぬくもり 器を拭いたときの布のやわらかさ 猫を撫でたときの毛のあたたかさ うたたねをするときの朧げなる意識 目をあけたときの太陽のまぶしさ 水道水を触ったときの染み入る冷たさ 呼吸をしたときの肩の脱力 未来を想うときの息苦しさと不安 過去を想うときの感情のつよさ それらを認めるときの余裕と余白 とらわれないときの安心感 これが今日のじぶん いまを生きていた証

human beingという言葉を想う

 人間という言葉を英語訳すると 「human being」と訳されることがある。 この言葉が使われ始めたとき、 なぜ「being」を使ったのだろうか。 よく聞かれるようになった「being」。 「存在(DeepL)」「であること(Google翻訳)」と訳される。 では「human」とはなにか。 「人間的(DeepL)「人間(Google翻訳)」と訳される。 これを単直につなげてみると、 「人間的な存在(DeepL)」 「人間であること(Google翻訳)」 となる。 human beingを使い始めた人に想いを馳せる。 そして「人間」という言葉。 「人の間」と使われる人間。 「人」とはなにか。 人の成り立ちは「立っている人間を真横から見た形」である。 ゆえに人は1人しかいない。 その間を「人間」と日本では使っている。 人の間にある存在。 人の間のなかで、個の存在を明らかにする。 human beingからは、そんな主張も聴こえてくるようだ。

活動の原点のひとつ。

 自分のことを知り、良さを活かせて、この世を生きていくには、 どうしたらいいのだろう。 それが、この取り組みの原点のひとつ。 自分自身を知ること。己と向き合う時間空間、支援があること。自分の探求。 自分の良さを活かせること。良さを知れば嬉しい。楽しい。その想いは波となり、さらなるつながりを広げていく。 この世に生きること。自分という個を感じて、今の自分の生を生きる。表現していく。 まずは、自分を知ることからはじめる。 自分を知るということは、深く、長いものとなる。 なので、それをしやすい環境と、力を分けてくれる存在があると、楽になる。 そういう時空が、必要だと思う。 そこでいま、わたしが探求しているものが「灯りと対話」。 "自分を知りやすくなるような空間と 向き合うことを支援する対話" それが、活動の原点。最初の形である。

在る違いを生きてつながる

 もしすべてのものが 単一のエネルギーだとしたら なぜわたしたちは 様々な栄養素を必要とするのか それは わたしたちが組み合わせから できているからだ 元は単一のものかもしれない でも わたしたちも 物質も 星も 宇宙も 組み合わさって つながって できている 単一のエネルギーがつながりあって 成り立っている だからわたしたちはみんな違う 違いのうえに存在しているからこそ つながりあえる 完全な真理を追い求めるでなく 在る違いを生きていく そして違うつながりを持つからこそ 新たな星がうまれるんだ

低音障害型感音難聴、レビュー

  約3週間前に発症しだしたタイトルの難聴。 せっかくのお付き合いなので、書き残しておこうかと備忘録。 ある日、片耳(右)が塞がったようになる。 まるで水の中にいるみたい。 前の日に耳掃除をしたから、 あれ、どこか傷つけちゃったかな? なんて思っていた。翌日にはほぼ治っていた。 そうしていたらその1週間後くらいに、再び塞がる。 おかしい。耳掃除はしてないぞ。 パートナーに耳だから早めに病院に行ったらと言われ、 翌日空いていたので、これは行けってことかぁと 急遽病院行きを決める。 診察を受けたところ、聴力検査で低音領域の聞こえが悪いことが発覚。 メニエール病の前段階みたいな症状です。 (メニエール病?よく聞くやつだ。こんなふうになるのか) めまいや頭痛はなく、片耳だけ。ずっと水のなか。 服薬をして、1週間様子をみましょう。 まじめな人がなるやつだから、ざっくり過ごしてください。 ざっくり!笑。あぁ、そうかざっくりかぁ。 思い当たる節はいろいろあった。 昨年12月からアルバイトを辞め完全個人事業主化。 天の流れとやってみたいことだったのでその流れに進んだが、 やっぱり日々 「大丈夫だろうか。暮らしていけるのか。お金は得られるのか」 ということを思い詰めていたなぁと、振り返って気づいた。 自分としては、結構キュウキュウだったのかなぁ。 そして、さらなるスローダウンを求められる状況に笑ってしまった。 新卒からニトリに入り、個人の照明工房に移り、独立してアルバイトをし、 アルバイトを辞め一人仕事へ。 どんどんスピードは落ちていく流れと、 アトリエを持ち、 「よぉしここからズンズンいくぞ!」 っていう流れも可能だったのにも関わらず、 立ち現れたのは「もっとざっくりいきなさい」という状況。 この意味は何なんだと、 宇宙のメッセージを感じようと向き合ってみた・・・。 その中身は以前の投稿で書き記した。 今明瞭なことばで語るより、感覚的なこちらのほうが的確だ。 そうして服薬を続けて過ごして2週間。 お医者から一度止めて様子をみてみようというタイミングだったので、 1日やめて様子をみることにした。 しかし、その前の晩、 思いがけず大変に思い悩んでしまい、 翌々日に症状が再登場! あちゃー、まだだったかー笑。 症状が再発したことで、いくつか気になる点がみつかった。 薬の内容として...

わたしの源へ

  じぶんであることを感じ じぶんであるための選択をし続けること 世界も身の回りも 絶えず変化していくなか この感覚をじぶんの真ん中に置いていくことは きっとわたしの星魂を生きていくために 大切なことなんだろう だから学んでいく じぶんであることの感じ方を だから挑んでいく じぶんであるための選択をすることを そして向かっていく じぶんの源であるところへ そして気づいていく そこに距離はなく 時間差もなく そのままの源であったことを