先日通っている整体で、
「作家としての熱意が足りない」とことばをもらった。
「作品には熱意がこもっているのはとてもよくわかる。だからわたしも買わせてもらったのだし。でも、伝える部分では熱意が足りてないんじゃない?」と。
それを聞いて、思い出したことがあった。
それは中学高校のころから、どこか「自分が考えていることやこれが良いと思っていることは、他人には理解してもらえないんじゃないか。共有はできないんじゃないか。」という考えがあったこと。
そしてそれが心のどこかにまだ存在しているということだ。
そのコンプレックスともいえるものが、自分の感性への自信や勇気、相手へ伝えようという気持ちを萎えさせ、遠慮や控えといった状態にしてしまっているのではないかと。
そういうことが苦手だと思っていた。
でも苦手なだけじゃなく、自分に許可をしていなかったのかもしれない。
ものにはよく込めている自覚はある。自分の感性・哲学・大切だと思うこと・これからの人生・生きる土壌である地球について、人としての関わりについて。
みえるものもみえないものも、自分の考え、経験、感性をもとに注ぎ込んでいる。ものは、それに応えてくれる。
ただそれを人に伝える段階になると、上記のことが生じてくる。
途端に勧めることが億劫になり、自信が減ってしまう。
発信する内容も、幾分良くはなってきているが、2枚3枚ベールにくるみながらやっていたような感覚にすらなった。
熱意。
熱意だけ伝えればいい。
それは解放でもあると感じた。
あぁ、解放してもいいんだと思ったとき、
うれしい気持ちになったのと同時に、
どこかそれを待ち望んでいる自分がいるように感じた。
この命を生きるならば
ぼくは自己を解放してあげたい
十分に発揮してあげたい
そう感じたひとときだった。
だからこれからは、そんな解放をしていきたいと思う。
この投稿すら自分にとってはチャレンジングだ。
どう言動が変わるのか、強調されるのかはまだよくわからない。
人にどう伝わるのか心配を少し感じるが、
でもそれが己であるから、後のことは仕方のないことかもしれない。
許可をだす。熱意や己を解放することに。
ぼくは自分の感覚が好きだし、自分の経験を尊いものだと思っている。
そこから生んだ作品たちは、自分の分身のように愛情が湧く。
己に、己の感覚に、感性に、経験に、思考に、判断に
嘘はつかせたくない。
どこかにそんな気持ちを感じたから、安定の企業を辞め、小さな筏でこぎ出したんだろう。
そうなった。そう受け取ってきた。流れの中から。選んできた。
ちょっとやってみる。
この生命に許可をだそう。
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