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5月, 2022の投稿を表示しています

背中での感覚って

 冷たい珈琲を片手に 川原で1時間ほどたたずむ 陽射しはあたたかく 吹き去る風はまだ涼しい そんな風を感じていたら そういえば風を受けるのって 好きだったなぁと思い出す 特に風を背中で受けるとき なにかを洗い流されているようで 気持ちがいいんだった そう思い出したとき 最近体感を増やしたいと思っていることと つながるものがあった 感じるといわれると あたまだったり こころだったり 肚だったりするけれど いまじぶんは 背中で感じたいんじゃないかと そんなふうに思った そう思うと 好きな岩盤浴も背中で熱を感じている 瞑想で呼吸をするときも あぐらをかくより仰向けになるほうが より深くできる じぶんにとって この「背中で感じる」ということに どんなものがあるのだろう 背中をひらくような 洗われるような 解放するような 背中で浴びる感覚 なんだろう 背中ってなにがある? どんな意味があるんだろう? 天使は背中から羽が生えていたりするし 背骨があり神経が通っている あぁ この感覚はなんだろう

〜今月の満月の手ばなしごと〜

 いまじぶんが持っている あるいはじぶんにあるものを 楽しむことへの遠慮を 手放す : 何かに興味があったり おもしろそうと思ったり やってみたいと思ったとき そんなに大したことじゃないから とか またそこまでのレベルじゃないから とか わたしがそんなことしてるなんて とか 自分への評価や他者の目 様々な理由をつけて そこから離れようとすることがある でもそれって もっともっと 自分中心でいいんだと思う それがどんなペースでも たとえどんなレベルでも じぶんが楽しめればそれでいい ペースやレベルは あるようでないようなものだと思う そこに固執して 感じた楽しみを体感できない時間より その遠慮を手放して この心身に体感させてあげるほうが きっと注がれるものがあると思う だから 自分がじぶんを楽しむことを 遠慮しない じぶんにあるものを表現することを 遠慮しない 歌う つくる 書く 踊る 動く 聴く 味わう 感じる 描く この五感を震わせるもの 降りてきたり湧き上がったりするもの そのじぶんのための経験を 遠慮しない

また起き上がる。言葉を打つ。

 4月は燃え尽き症候群のようなところもあり、 あまり集中できそうになかったので、文を綴ることから離れていた。 そろそろまた言葉を紡ぎたいかなと思い始めている。 そんなときに、以前見た映画をもう一度見返し、 その時に書いたレビュー文を見返した。 3月19日。 このラインより上のエリアが無料で表示されます。 自己満足だけど、いい感性しているなーって思った。感じる力、切り取る力、まとめる力。 これおれが書いたのかぁと。 文を書くのは、筋トレみたいな面があると思っているから、 たった1ヶ月ほどだけど、なんだか衰えてしまったやという気持ち。 でもきっと、一度作られた回路はまだあるはず。 またそこに流せば、再び澄んだものが巡るはず。 時間をつくろう。 まずは、自分のいのちの時間の中から、 言葉を綴る時間を、 もう一度確保する。 そして息をする。 呼吸をする。 目を瞑る。 浮かぶものと楽しむ。 歌い、踊る。(踊りの経験は、ほぼ無い。印象) リズム。 タイミング。 音数。 文字数。 行間。 間。 空白。 余白。 空想。 妄想。 連想。 自分を好きでいる。 自分を満たす。 自分のための問答。 表現。 良し悪しのない。 自由。 いまはそのじかんでいいんだ。 1日のうち、ほんの10分。 10/1440分。 じぶんと遊ぶ時間。 じぶんとおしゃべりする時間。 そう。遊んでいる。 高尚さも、見てくれも、承認も 好きにすればいい。 誰かのためにでなく、 自分のためのものであれば、 どれだけでも格好つけちゃえばいいでしょ。 そこには、 自分にとっての美しさがあるんじゃないか? 他からの評価を排したときに それでもなお格好つけたいこと。 その人にとっての、じぶんにとっての、 美。 大いに広げちゃえばいい。 ここが、それでいい場でありますように。

あらためて、問う

 今朝の夢は、マンションの一部屋で、日本が吹っ飛ぶかもしれない地震がくる予知があり、 実際に鮮烈な発光とともに揺れがきた。 携帯のライトで光を確保し、次に行ったのが、なぜか1階の共同部屋?に置きっぱなしにしていた琥助さんを引き取りに、迎えを後回しにしたことを大変に後悔しながら向かった。 エレベータはしっかり動き、謎に5階から地下直結のエレベータに乗ってしまい、急いで非常階段で上った。 この間ずっと焦っている。冷静を保とうとしているが、早口で口調も荒い。まだまだだなぁ自分。 そして向かった部屋には、なんとも大量のキジトラ猫。一瞬どれが琥助さんかわからないような状況だったが、みんなそれぞれ特徴が違う。 見定めていると、誰かのお迎えがきたよという声に、奥からしっぽの下がった琥助さんがビビりながら駆け寄ってきた…ところで夢が終わった。 : この夢と全然関係ないのだけど、ある文章が気になって、あらためて思い起こしている。 なぜコーチングを学ぼうと思ったのか。 たいそうなものではなかった。その理由のひとつに、「良い問いをしたいから」というものがある。 そしてその問いを出すのに、じつに多種多様な要素が含まれていることを知った。 そこにはそれぞれの人の個性が混ざる。 個性を混ぜるには、自分を知ることが必要だ。何よりコーチングをする人が、自分を知る探求・探究をすることが、個性を混ぜることにつながる。 結果、いわゆる「コーチング」という定義の関わりとは別なものになるかもしれない。それでもいいと思う。コーチングは数あるひとつの手法で、それに合う人が突き詰めていく。そしてそれに合う人がその人のコーチングを求めていく。ここにも多様性と二極化の波が間もなくくるんだろう。 そんな中でもぶれない、この手法の本筋はどこか。王道はなにか。 そのようなことを求めながら、基礎を学んだきたと思う。 基礎練はどの世界でもやり続けていくことだろう。 野球の素振り、空手の正面突き、絵画のデッサン、瞑想の呼吸。 たぶん、コーチングにも基礎練があるだろう。 今はその中の自分の好みを感じている。どんなことが好きで、どんな関わり方が好みなのか。 そんな中、今感じているのは、いわゆる行動計画イケイケどんどんなセッションはあまり好んでいない。グイッといきたいタイミングもあるけど、そこを急ぐと表層で終わる可能性がある。...

〜今月の新月のはじめごと〜

  新月のはじまりごとと 満月の手ばなしごとを 開いてみようという思いつき 《自分の名前を意識してみる》 それはあなたに贈られたものでもあり それはあなたが選んだものでもある その言葉に秘められた 意味 音 流れ それを感じてみようという意識 とらわれず 柔軟に 受け入れてみる試みを