スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

4月, 2022の投稿を表示しています

じぶんの名前の漢字をみつめる

  昨日のコーチングセッションで 「コーチングでどこまでいけるか」のテーマから 「なぜ生まれてきたのか」というお題を提案した (なぜ生きているのか、なぜ今ここにいるのか、という3つと悩んだが、移動中に前にいた車のナンバーが自分の誕生日だったので、上記のテーマに決めた) その中で、 「どんな想いで、親は自分のなまえをつけたのだろうか?」 という問いをもらった 自分の名前は「大きな山」という意味だと言われた記憶があったので、 それをもとに話を進めていた どんな想いを込めて、自分の漢字の選んだのか そう思うと、自分の漢字の成り立ちをあまりはっきり理解していないことに気づいた いろんな漢字は調べていたのに そう気づいたら、なんとなく避けていた記憶が蘇った 以前に調べたとき、「大きな山」という意味とはちよっとずれていたのだった そこの違和感から、避けていたのだと思う 家に帰って寝起きた朝、 あらためて、漢字の成り立ちを調べてみた 顕嶺 顕は 左側に日と糸、右側に人が含まれ、日の下で糸を紡ぐ人という解釈から 「はっきりしている。あきらかにする」という意がある。 嶺は 連なった山、頭上の冠、ひざまずく人の象形から、人が神の神意を聞くという意と 人の頭部を強調した象形から 「多くの山々をまとめるいただき」 という意がある。 これを捻じ曲げないで、素直に感じてみよう 多くの山々には、自己の興味関心や他との関わりを感じる そのいただき 自分の興味・取り組みが集約される印象が湧く しかしそこにあるのは山である 山の成長、変化、多様性の速度と多さを想像する その集約された山のいただきで 日の光の下で穏やかに糸を紡ぐ人は その糸になにを込めているのだろう なにがみえているのだろう その行為になにを意味しているのだろう それぞれの山々がいただきに至るまでの経験から はっきりとあきらかにしたものを内包し 日の下で糸を紡ぐ人 なんだか 極に達した穏やかさを感じる 他者からはどう映るのかな むかしから 一本とんがった専門性を発揮することに憧れを抱いてきた 小さい頃から夢を持って、邁進して活躍する人が羨ましかった それに憧れる自分 それを目指そうとする自分 でもなんだかその熱意が続かずにいた自分 そんな自分に自己嫌悪した自分 でも 今じぶんは 連なる山々を育んでいるのかもしれない それぞれの山...

琥助さんとの星の軌道

  今週は、なかなか大変だった。 飼い猫の琥助さんが膀胱炎になり、 夜通し泣き続けたり落ち着かずにいる期間が続いていた。 きっと本人(猫)も痛みだったり違和感だったりが大きかったんだと思う。 でも初めてのこの症状を共有したわたしは、 どうにかして落ち着いて寝たい、静かにさせたいと 相手を変えることに意識を注いでしまっていた。 人も、猫も、相手を変えようとするのはしんどい。 思い通りにならないから、余計に気持ちは乱れ、相手にあたる。 薬だって「食べさせよう」という気持ちであげてしまう。 9種類ほど食べさせ方を試しただろうか。でもどれも飲み込んでくれなかった。 ふだんから人間の2歳児のように甘えたで不安がりなので、 注目をしてもらいたいがためにおしっこをする、ということをしていた琥助は、 エスカレートして、多いときは5分に一回はトイレに行った。空っぽの膀胱をしぼって。 通常ではみない赤い血が混じる。 赤というものは、なぜこんなに心配を覚えるのだろう。 でもこの睡眠不足と琥助さんの反応に少しだけ慣れてくると、 違った姿を感じるようになってくる。 水をいつもより多く飲んでいる。 医者のいうことを聞いているわけでもないのに。 彼も、なんとかしようとしているんだ。 日中の居眠りの顔をみる。 なんとも穏やかなそうな顔で寝ている。 彼も、きっと落ち着きたいんだろう。 騒ぎたくて、そうしているわけではないように思った。 そう感じると、敵対する気持ちから、いっしょの方向をみて付き合うという 気持ちが湧くことがでてきた。 薬をあげるときも、うまいこと食べさせようという気持ちからいっしょにがんばって治そう、おれも食べやすい方法を考えるから、がんばって食べてねという気持ちになった。 そうすると、少しだけ薬を食べられるようになった。 夜も騒ぐ時間が短くなってきた。(それでも1時は越えていた。昨日は0時前までになった) 自分もも徐々に協力していくような感覚になれてきた。 寒かった今日、朝布団に入ってきた。以前のように関われることが嬉しくて安心だった。 猫との暮らしは学びが多い。気持ちの修行も多い。 可愛さと同じくらいの試練がある。正直言って、耐えきれなくなって手放したくなる気持ちもとてもわかる。 それでも琥助さんには縁を感じている。わが家に、自分の人生に必要があって、 沿うように入ってき...

あたまで考える必要あるんだっけ

  最近、活字が通り過ぎやすい なんとなく じぶんの中から見つかりそうな気がする じぶんのことばで浮かび上がるような気がする だからなのか あまり書籍や文章に集中できていない かと言って いまあまりじぶんにも集中しきれていない 日常の騒々しさに巻き取られがちになっている あたまにモヤがかかって あまり深く考えられていない あれ あたまで考える必要あるんだっけ 意識してじっくりと 向き合い時なのだろう 力を抜いて 斜め上をむいて 目の奥とあごを緩めて 呼吸を自然に大きくして 感じよう自分 その直感を