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振り子とモモの時間の花

  先日の記事で振り子と生について、浮かぶままに書いてみた。 その振り子と生を想像したとき、 ペンデュラムやフーコーの振り子などが立ち現れた中、 ミヒャエル・エンデの「モモ」の1シーンが思い出された。 モモがマイスター・ホラに連れられて向かった池。 そこには星の振り子があり、 対極に振れていくごとに花が浮かび、中心に戻るごとに散り沈んでいく。 そしてまた対極へ振れていくと別の花が浮かんでいく。 どれもが一番綺麗だと思える花が。 わたしたちはひとつひとつの星であり、中心が在る。 その中心をもとに、時間の花を咲かせている。 じぶんがひとつの星であることを思い出す。 その星の体感を思い出す。 わたしたちは誰かになるのではない。 自分自身の振り子を生きる。 じぶんであるだけで、じゅうぶんなのだ。 わたしは 今回の振りで、なにを咲かせに来たんだろうか。 なにを感じに来たんだろうか。 360° 1ミクロン位置が違っても異なるかもしれないほどの 数えきれないステージのなかで、 なにを経験しにきたんだろうか。 じぶんが喜ぶことを。 じぶんが楽しいことを。 そして 山としての営みを。 咲かせにきたのではないだろうか。

ゆれて 振れて 向かう先

  囲い込む 知恵がつくほど そちらに偏ることがある なぜ? 楽だと思うから? 囲い込んだそのさきに あなたはなにをみているの? これは 個で存在しているかぎり 生じてしまうのだろうか 個で存在する必要があり 囲い込むプログラムもまた 必要なのだろうか 囲い込んださきに なにがある? 独占 嫉妬 優越 支配 格差 試練 それも魂の 課題なのだろうか 大いなるものから学びの為に 個に分かれたとしたら この感覚からの学びはなんだろう 正解がない 実験を積み重ねる 旅人なのだろうか どんなに距離が離れていても どんなに距離が近くにいても 他があり己がある この己が なにを選択するのか 想像の中から選択し 感覚の中から選択し 現象の中から選択し 己の命を運ぶのか ゆれる 両極にゆれる ゆれるからこそ 対極へいける ゆれて 振れて その分大きく その分遠く そうか 遠くへいきたいのか そのゆれを その振れを 段々大きくして 遠くへいって また戻って その極で経験を纏い 次の極へ そして 対の遠くへ 遠くの奥へ ゆれた分だけ 振れた分だけ 纏った分だけ ゆらぎのように 振り子のように それぞれの対極へ行き また中心へ戻るんだ

じぶんのためは、だれかのため

  じぶんのための心地よいが そのまま だれかのための心地よいになる じぶんの心地よいに気づき じぶんの心地よいを知る じぶんを心地よいで満たすと じぶんから心地よいがあふれる その心地よいは波動であり その心地よいはエネルギーである エネルギーは共振し 広がり伝わる だから じぶんのための心地よいは だれかのための心地よいに そうやって つながっていくんだ

選択肢の奥の種

  運命 命を運ぶ それは 選択によってつくられる そしてその 選択することの 奥をみる 行動の奥の 気持ちの奥の 意識の奥 意図の奥の 気づきの奥の たくさんの種 その時あなたは どの種を選ぶのか 自分が選んだ種を 育み 伸ばしていけたら 運命は つくっていける だから 自分を知ろう 自分のなかに 何があるのか 気づいて 知って 自分で選ぼう どの種を 育みたいのか 見つめよう 触れよう 愛そう いま あなたの中には 数えきれないほどの 種と 運命が もうあるのだから その方法は 共有するから 時間をともにし それぞれの命を ともに運ぼう