先日の記事で振り子と生について、浮かぶままに書いてみた。 その振り子と生を想像したとき、 ペンデュラムやフーコーの振り子などが立ち現れた中、 ミヒャエル・エンデの「モモ」の1シーンが思い出された。 モモがマイスター・ホラに連れられて向かった池。 そこには星の振り子があり、 対極に振れていくごとに花が浮かび、中心に戻るごとに散り沈んでいく。 そしてまた対極へ振れていくと別の花が浮かんでいく。 どれもが一番綺麗だと思える花が。 わたしたちはひとつひとつの星であり、中心が在る。 その中心をもとに、時間の花を咲かせている。 じぶんがひとつの星であることを思い出す。 その星の体感を思い出す。 わたしたちは誰かになるのではない。 自分自身の振り子を生きる。 じぶんであるだけで、じゅうぶんなのだ。 わたしは 今回の振りで、なにを咲かせに来たんだろうか。 なにを感じに来たんだろうか。 360° 1ミクロン位置が違っても異なるかもしれないほどの 数えきれないステージのなかで、 なにを経験しにきたんだろうか。 じぶんが喜ぶことを。 じぶんが楽しいことを。 そして 山としての営みを。 咲かせにきたのではないだろうか。